歴史・資料

神社の歴史・資料

当社は素盞嗚命を御祭神として、霊亀元年(七一五年)奈良時代に創建されたとされ今も残る棟札に古来より伝承されてきました。

残っている棟札で一番古いのは寛文二年(一六六二年)江戸初期の棟札に、当前新宮大明神御建立古者、霊亀乙卯年九月吉祥日、三ヶ郷御建立、只今壬寅年迄、九百四十八年。只今御建立、長野村、神山村、江田村、小川村四ヶ郷云々(以上は大正十五年発行の甲賀郡志に書かれていました。現在はその棟札は黒くなり読めませんが、平成26年デジタル解析の結果、文字が判明いたしました。)

寛保三年(一七四三年)長野村、神山村、江田村三ヶ郷之建立。寛文二年より寛保三年迄八十二年。霊亀元年より寛保三年迄千三十年。奉造立新宮本社一宇、天下泰平、領主武運長久祈修と書かれています。

天保三年(一八三二年)当社新宮大明神屋根奉惣葺皆下遷宮、上遷宮などが書かれています。

明治二年(一八六九年)の棟札には、当社新宮大明神奉屋根葺、霊亀元卯年より今、明治二年迄千百五十八年に来也とあります。

大正拾年(一九二一年)、奉修葺新宮神社の棟札には、大正拾年九月二十六日暴風の為大木倒れ、本殿裏屋根を破壊す、とあります。

平成五年十二月吉日の棟札は、奉修新宮神社本殿等屋根銅板葺替候也。霊亀元年九月御鎮座、今千二百七十八歳也と書かれています。

鳥居の前の石柱には、新宮神社。霊亀元年九月 御鎮座千二百五十年記念。皇紀二千六百年。昭和四十年九月建之と刻られています。これらの文書で伝承されてきた新宮神社は、霊亀元年創建以来、平成二十七年十月には、御鎮座千三百年の記念すべき年を迎えることになります。 前述の甲賀郡志には、社殿は寛文二年十二月二十四日及び、寛保三年十一月十九日の二回建造す。とあり、現在の土地に祀られるようになったのは、この江戸初期からではないだろうかと考えられます。それ以前は、創建された霊亀元年から、長野東出の滝谷に祀られていたと伝えられてきました。今の大日堂の南側に宮地があります。

保安四年(一一二三年)平安末より、神山神社の祭礼の時、神輿の渡御を請い以来祭日を同じうし、文永七年(一二七〇年)鎌倉末には江田村もまた祭礼を共にせんことを請いたれば更めて四ヶ村の祭礼とし、毎年四月三日、九月九日の両度、一夜づつ本社に神輿の御泊となり、御供物送迎等総て四ヶ村にて行い来りしが、明治十三年(一八八〇年)に至り神輿送迎の礼を廃し、尋いで本社は別に祭礼を行うに到る(五月二日)。古例祭とされる四月十六日の例祭は、保安以前のことと思われる。

 

東出は、神山の住民が移り住んで長野は端村となったといわれ、城ノ越を通って往来したようで、神輿もその道から東出へ渡御したものであろう。

 

宮座は、本社祭礼の時、氏子の座所を区分して、四座となす。大座、中座、小座、分座とあった。現在その姿が無いのは残念であります。

 

境内末社として『大國社』(田所神社)。『御神木社』(初代御神木)。『神武社』(神武天皇遥拝所)。『忠魂碑』

摂社として『愛宕神社』(平安時代創建)。『秋葉神社』(江戸初期、貞亨元年創建)。『陶器神社』(大正年間、愛宕神社に合祀)。 御神木(御神霊木)樹齢三百年とみられる縞柿の木(神鈴柿)

文化財として、県指定【甲賀の祇園花行事】の中に『新宮神社の花振神事』。また甲賀市指定有形文化財として『鰐口』文安五年(一四四八年)室町中期がある